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光明の偉人
  • オリ(梧里)イ・ウォニク(1547~1634)

     朝鮮中期の名臣。号はオリ(梧里)で、素朴な人柄と清廉な生活で信望が高かった。
    大同法をはじめ、農民など庶民の生活の安定に焦点を当てた実用的な政策の実施を重視した。

    領議政の位にまで就き、厚い信望と卓越した能力で5回も領議政を任命された。1592年に起きた文禄・慶長の役では吏曹判書と左議政、領議政を歴任し、国難の克服に全力を尽くした。

     ジョンジョ(宣祖)がイジュ(義州)へ避難する際、ジョンジョ(宣祖)のそばを守り、ピョンヤンソン(平壌城)周辺では勇敢に日本軍撃退の先頭に立ち、 高い中国語能力をもとに援軍として参戦した明との外交関係改善に努めた。

    戦争後期に明の将軍との葛藤などから始まった外交摩擦の際は、北京に派遣され、朝鮮の立場を伝えるのに全力を注いだ。

    一方、1595年には道監察司を兼任し、チュンムゴン(忠武公)イ・スンシン、義兵将・ クァク・ジェウ、チョン・ギョンセなどと緊密に接触、戦局を有利に導くうえで 重要な役割を果たした。戦後、クァンヘグン(光海君)の即位後は、大同法の施行を強く主し、戦後の庶民の生活安定に大きく貢献したほか、朝鮮後期の税政体系改革の契機を作った。

    クァンヘグン(光海君)時代にはインモックデビ(仁穆大妃)廃位の件で、クァンヘグン(光海君)と葛藤が続き、洪川に流罪になったが、インジョバンジョン(仁祖反正)後、領議政となった。

    ソハ(所下)洞はイ・ウォニクの遺跡がたくさん残っているところで、墓及び神道碑、梧里影宇、 クァンガムダン(観感堂)などが残っている。

    何よりも約60年にわたる官職生活の間、極めて清廉で、自身の財には興味がなく、子孫にも 倹約精神を強調して不正が全くなかったため、彼の官吏としての姿勢と子孫に残した遺言は世代を越えて必読書として読まれた。

    インジョ(仁祖)廟庭に祀られ、クァンミョン(光明)のチュンヒョン(忠賢)書院、ヨジュ(驪州)のキチョン(沂川)書院、アンジュ(安州)のチョンチョンサ(淸川祠)で祭事が行われた。

  • ムイゴン(武毅公)イ・スンシン(1554~1611)

     ヤンニョンデグン(譲寧大君)の子孫で、キム・ソンイル(号はハクボン(鶴峰))の門下で学び、武科に及第して武人の道に入った。

     1592年防踏鎭僉節制使を務めていたが、文禄・慶長の役が起きると、チュンムゴン(忠武公)イ・スンシンの中衛将としてタンハンポ(唐項浦)海戦で勇猛に活躍し、名を馳せた。その後、閑山島、釜山浦、長門浦海戦に参戦して、日本軍撃退の先頭に立った。弓に卓越していたとされ、チュンムゴン(忠武公)イ・スンシンに寵愛された。 忠武公の最後の海戦となったノリャン(露梁)海戦に参戦した際は、流れ弾に倒れたチュンムゴン(忠武公)イ・スンシンに代わって全軍を激励し、勝利に大きく貢献した。 1604年日本軍の侵略を防いだ功績から、宣武功臣3等に冊封され、ワンチョングン(完川君)に冊された。

     1611年全羅兵馬使を歴任し、亡くなった。大韓民国海軍では先生を讃え、1998年に建造された国産7号の潜水艦を「李純信艦」と名付け、讃えている。

    死後、武毅(ムイ)という諡号を受け、墓はイルジック(日直)洞チョルゴル湧き水の入口のソドク(書読)山の麓にある。

  • ミヌェビン(愍懷嬪)姜氏(1611~1646)

    光明の世居姓氏であるクムチョン(衿川)姜氏家門で産まれ、カン・ソッキ(号はウォルダン(月塘))の次女でインジョ(仁祖)の長子であるソヒョンセザ(昭顯世子)の妻になった。1627年世子嬪になったが1636年に起こった丙子の乱の余波により1637年 清国の首都である瀋陽に人質として連れて行かれ受難を受けた。当時の瀋陽には、世子とポンリムデグン(鳳林大君)夫婦をはじめ、数万の朝鮮人捕虜が敗北国の民で、あらゆる苦難を受けていた。 約8年間に及ぶ瀋陽の捕虜生活の間、普通の婦人とは違い、清国の高官と接触し朝鮮の民の自救策を講じる等、積極的な努力を行い瀋陽での生活を安定させる事に寄与した。

    瀋陽関所で生活する間、このような経験で広い眼目と現実感覚を持つようになった。
    この様な努力で世子一行が留まっていた瀋陽関所は、朝鮮の民の送還と新しく成長する清国との外交関係が円満になるように寄与した。

     清国が明国を敗亡した後、懐柔策として1645年帰国したが、帰国後3ヶ月で世子の市と息子の世孫の冊封霧散等で苦難を受ける事になった。世子の疑問の死をとり巻いたインジョ(仁祖)との葛藤と権力安定化を追求した権臣たちの陰謀で翌年1646年、兄たちと共に謀反の疑いで死刑に処された。

     世子賓をはじめ世子一行の積極的な態度は、丙子の乱の敗北で悪化していた国内指導層の反清情緒を刺激する事で誤解と葛藤が引き起こした事件だった。
     ミヌェビン(愍懷嬪)姜氏の死後、死体は故郷であるノオンサ洞クルム(雲)山に葬られ忘れられかけたが、1718年(粛宗 38年)に無念の死が明かされ復権し、ミヌェビン(愍懷嬪)として追叙された。初めは愍懷墓と呼ばれたが、コジョン(高宗)1903年(コジョン(高宗)40年) 永懐園(ヨンフェウォン)と改称され今日に至る。

     ミヌェビン(愍懷嬪)姜氏は危機を機会に変えた能動的な新しい女性像を見せてくれたが、その意味を広げる前に無念の死で花を咲かせることができなかった非運の女性であったが、女性の役割に対して重要性が強調される今日、その評価が高くなっている。

  • チョン・ウォニョン(1783~1873)

     号はキョンサン(經山)で朝鮮後期の政治家であり学者。20歳になる1802年文科に及第した後、司憲府・大司諫、吏曹判書、領議政に至った。ホンジョン(憲宗)が亡くなるとトクワングン(徳完君)(後のチョルジョン(哲宗))を擁立を主張し王室の跡を継いだ。

    朝鮮後期、勢道政治等で地方政治が乱れると暗行御史制度の復活を建議する等民生安定に努力を注いだ。

    1862年には三政釐整廳の摠裁官になり、三政(朝鮮後期国家財政の根幹を成した田政 · 軍政 · 還政を指す言葉)の乱れを是正するよう努力した。

     特に換穀の度が過ぎる還収により民の生活が厳しくならないようにした。

    1863年チョルジョン(哲宗)が亡くなると、院相になりコジョン(高宗)が即位するまで国政を管掌し、チョルジョン(哲宗)実録の編纂を総括した。72年に至る官職生活の間、大きな栄華を保ったが、比較的質素な生活と清廉した身振りで朝鮮後期の政治史の巨木として位置付くようになった。

     文字と文章に優れ、經山集40冊、黄閣章奏21冊、北征録10冊、袖香編3冊、文献撮要5冊等膨大な著述を残した。

     墓はハクオン(鶴溫)洞サドゥル村にあり、郷土文化遺産2号として指定されている。

    当時彼が来ていた衣服をはじめ、遺品は民俗博物館に寄贈され(重要民俗資料13号)服飾史研究に貴重な資料として活用されており、80余年の生涯の間記録した日記(經山日記)は、朝鮮後期の政治史及び士大夫の生活研究に重要な資料だ。

  • チェ・ホチョン/ユン・イビョン(1899~? / 1900~1960)
     西面ソハリ(所下里)生まれで、3.1運動当時、ベジェ学堂に在学中だったが1919年3月28日の夜に起きたイ・ジョンソク奪還事件及びクァンミョン(光明)地域の万歳運動の主導者だ。
    ソハリ(所下里)とカリデ(加里大)を中心に約200余名の住民を率いて夜間にノオンサ洞ヌンマルの駐在所に行き万歳運動を起こした。
     この当時の万歳運動は、暴力的な姿に見え、日本の行政機構に向かった正面対抗としての意義を持っている。この事件の余波でクァンミョン(光明)では7名の住民が逮捕され、崔浩天と尹宜炳は、2年の刑を宣告され獄苦を経験した。以後、尹宜炳は満州で独立運動に投身し、崔浩天は夜学運動等を行った。